大阪ガスの強火だき・・・
大阪府堺市にある病院に勤めていた頃のことです。その病院には、認知症の人を専門に治療する病棟がありました。そこに58歳の女性が入院していました。3年前から、言葉数が減って、黙っていることが多くなり、料理や掃除などができずぼんやりと立ちすくんでいることが多くなっていました。ふらりと外出して警察に保護されることもありました。しゃべる言葉はごくごく限られていて、その一つが「大阪ガスの強火だき、強火だき」でした。当時、テレビCMで、しょっちゅう流れていたのです。
ずっと黙っていたかと思うと、急に拍手してそれから「大阪ガス・・・」と繰り返し、「ほっほっほ」と笑います。それを繰り返すのです。それ以外はほとんどしゃべらず、挨拶しても返してくれません。病棟内では、同じところを飽きもせずに往復していました。怒ることも泣くこともなく、ただ同じ事を言い、おなじ動作を繰り返しました。3年ほど入院されたあと、急に食事を取られなくなり、そのまま息を引き取られました。今でも、病棟内を歩き回っておられたときの笑顔を忘れられません。
この人は、頭部CT検査すると大脳の前面と側面(前頭葉と側頭葉)が著しく痩せ細っており、ピック病、最近の言い方だと前頭側頭型認知症と診断されました。前頭側頭型認知症では、言葉の障害が早期から出現し、同じ動作を繰り返す常同行為が出現しやすい病気です。
2階に誰かいる
浜松で一人暮らしの90歳になった女性です。娘さんが名古屋に住んでおられます。2階建ての自宅に住んでおられ、身体はすこぶる元気で、日中は畑で野菜をつくって娘さんに送ったりされていましたが、1年位前から膝の調子が悪くなり、階段をあがるのが億劫になってきました。そのせいで2階にはめったに行くことがなくなったそうです。半年前から、娘さんに電話をかけてくることが多くなり、「2階に誰かいる。音が聞こえる。」「しらない男の人がいつのまにか住みついている。」というようになりました。最近では、「夕方になると何人もの男と女が2階で話している声が聞こえる。怖いから見に来てくれ」というようになりました。
心配した娘さんが自宅にもどって2階を調べてみましたが、人がいる気配はまったくありません。そのことよりも、お母さんが日ごろ住んでいる居間が散らかり放題になっていることに衝撃を受けます。冷蔵庫はいつ買ったのかわからない食品がぎっしり。消費期限はとうにすぎています。お母さんに問いただしてもいつ買ったか思い出せません。あわてて、病院に連れていくことにしました。
診察室では、落ち着いた態度で礼儀正しい女性の方で、血液検査や心電図は大きな異常がなく、認知機能検査は軽度異常レベルですが、年齢からすると境界域だと判断されました。MRIでは、大脳全体の縮みがありましたが、著しいものではありませんでした。診断はむつかしかったのですが、生活機能が少しずつ障害されているという点から、軽度認知障害(MCI)からアルツハイマー型認知症に移行している事例と判断しました。一人暮らしで、生活が困難になる中で、周囲のさまざまな音が間違って解釈されたり、不安が高じていたのだろうと思われます。暮らしの環境をふくめて生活サポートをどう進めていくのかが重要です。この事例では、介護認定を受けて、訪問看護、訪問ヘルパー、デイサービスなどの介護サービスを活用して、独居を継続する方向ですすめていくことになりました。精神・身体の状態変化によっては施設入所なども視野に入ってくることでしょう。
これまで2回にわたって、認知症とはどんなものかについてお話ししてきましたが、すこし堅苦しい内容であったなあと思います。そこで今回は趣向をかえて、私の40年にわたる認知症診療経験の中で、印象に残った人たちの思い出を書いてみたいと思います。